
とですね。
けさ出てくるときに、もう会社勤めしている子供に「おい、青年の家って知っているか」と聞いたら、「えっ、それ何」と言うものですから、ちょっとガクッときて「青年の家を知らんのか」と言ったんですが、「一体何をするところなの」と言う。「何をするところなの」と青年に聞かれると、これはなかなか説明のしにくいものがありまして、要するに訓練するところだと言おうと思ったんですけれども、訓練ばかりでもない。泊まって、とにかく青年が勉強するところだ、と言おうと思ったら、これもちょっと誤解を与える。結局、うまい説明の言葉が見つからずに、黙ったまま「じゃ、行ってくる」と家を出てきちゃったんですが、青年の家を知らないという人がまだ多いなという感じですね。
私の子供は会社勤めですし、しかも東京で地域活動も全くしていないものですから、そういう機会がないということでしょうが、やはりかた苦しいとかという答えが、知っている人からは返ってくるそういうときに、いつも問題提起されるのは、もっと幅を広げて、原則を少々曲げても、悪い言葉で言うと、迎合した方がいいのではないかという意見が必ず出てくるんですが、ちょっと違うのではないか。まだまだ青年の家がよって立つ、青年の家が持っている特徴というのを十分−これも悪い言葉ですが、それじゃ、もうしゃぶり尽くしたかと言えば、まだまだかみつくしていない、かみ切れていない。何かまだ丸飲みしたぐらいで、十分そしゃくして、味わって、腹の中まで入れていないというふうに思うんですね。
だから、つくられた意味と、それから35年たった今の時代とを勘案してみて、こういうものを送り出すんだ、こういう青年にして送り出すんだというものは、自信を持って皆さんで考えていただいて、特徴を持っていないとだめだ。だから、いたずらに緩やかに甘やかしてどうのこうのということではなくて、イズムとしてきちっと持つべきものは持ってもらいたいと思うんですね。
その持ち方は先ほどお話ししたように、今までは日本国、いわば内向きに健全なる若者を育てようという意識から、外向きに健全なる若者をどうしたら育てられるか。それは、一個の市民として確立した若者である。そういうものを体験できる場であるというふうに青年の家を考えて、それで、やるべきことはやったらいいと思うんですね。先ほどの司馬遼太郎さんの実直というのが、もし日本人が発信できる世界的な価値観だとすれば、実直という言葉の中には、恐らくきちっと自分のやったことは始末をつける。例えば、だれも見ていなくたって、脱いだパジャマはきちっと畳んでおくとか、寝たベッドはきちっと整えるだけは整えておくとか、あるいは前の日に次の日の準備をきちっとして、まくら元にそういうものを整とんして置いておくとか、こういうのは実直という価値観の中に入るものだと思うんですね。
これも司馬遼太郎さんが書いておられるけれども、日本の職人は江戸時代から、その日、仕事が終わると、必ず後片付けをして、きれいにして、そして帰っていった。ところが、ヨーロッパの職人は、これもいろいろあると思いますが、もう終わったらそのまま「さいなら」で帰っていく。次の日、朝来て、また整とんして仕事を始める。要するに、江戸の職人のやり方というのは、あしたの朝来たときに、さっと仕事に取りかかれるように、前の晩にそういうことをやっておくということなんだと書いておられます。
私の田舎は綾部(京都府)ですが、グンゼという会社がありまして、今年ちょうど100年なんですね。明治29年に創業されまして100年なんです。この会社が生糸を生産していたのですが、工場へ行くと必ず書いてあるのは、「あいさつをする、掃除をする、履物をそろえる」この3つなんですね。この3つが社是なんですよ。これはずうっと守ってきた3原則なんですね。これはみんな簡単なことなんですね。掃除をする、あいさつをする、履物をそろえる物すごく簡単なことなんですよ。簡単だけれども、これほど深い意味がある言葉もないなと感心するんです。
例えば、掃除をするというのが、なぜ大事かというと、製品のクオリティーを保っためですね。要するに、ごみ1つつけちゃいかん。シルクをつくるわけですから。そのためには、常に周りをきれいにし
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